「御着城」109城目@日本の城 #兵庫県

■城名
御着城(ごちゃくじょう)

■別名
茶臼山城、天川城

■所在地
兵庫県姫路市御国野町御着

■見ごたえ
★★★

■築城年
永正16年(1519)

■廃城年
天正7年(1579)

■築城者
小寺政隆

■主な城主
小寺氏

■城分類
平城

■遺構
曲輪、土塁、横堀(空堀)

■歴史
御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市にかつて存在した中世の平城であり、播磨国を支配した戦国大名・小寺氏の本拠地として知られています。特に、織田信長の家臣として名を馳せた黒田官兵衛(黒田孝高)が若き日を過ごし、仕えていた城でもあることから、現在も歴史的関心を集める城跡です。

御着城が築かれた正確な時期は不明ですが、室町時代中期に播磨守護職の赤松氏の被官だった小寺氏がこの地に勢力を築き、戦国時代に入ると本格的な城郭として整備されたと考えられています。地理的には、姫路平野の中央に位置し、市川の東岸に面しているため、交通の要衝にありました。東西交通の要である山陽道を押さえ、西播磨支配の拠点として戦略的に重要な位置にありました。

戦国時代、御着城は小寺氏の本城として発展し、周囲には家臣団の屋敷や寺社、商人の町が形成され、御着の城下町として栄えました。小寺政職(こでらまさもと)の代に最盛期を迎え、領内の行政や軍事の中心として機能します。このころ、黒田官兵衛は家老として仕え、御着城にあって政務や軍略に携わることになります。

しかし、戦国の動乱の中で小寺氏の勢力は次第に弱体化します。1577年、織田信長の中国地方進出にあたり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が播磨平定を開始します。官兵衛は早くから秀吉に従うよう主君・政職を説得しますが、小寺氏は一時毛利方に通じたため、秀吉の怒りを買い、やがて御着城は攻撃の対象となります。結局、小寺政職は降伏し、御着城は織田方の支配下に入りました。

その後、秀吉の播磨統治の拠点は姫路城に移され、御着城はその役目を終えます。1580年頃には廃城となったとみられ、石垣や建物は解体され、資材は姫路城の拡張に転用されたとも言われています。

現在、御着城跡には城の構造を示す石碑や案内板、堀跡や土塁の一部が残されています。往時の姿を完全には残していないものの、周辺は御着歴史広場として整備され、黒田官兵衛や小寺氏に関する展示がある記念施設も存在します。また、御着の地名や、地元で伝えられる伝承、史跡からは、中世・戦国期の播磨国の歴史を色濃く感じることができます。

御着城は、その規模こそ巨大ではありませんが、黒田官兵衛の出発点、また戦国時代における西播磨の政治拠点として重要な役割を果たした城であり、戦国史を語る上で欠かせない場所です。近年では、官兵衛人気もあって注目度が増し、地域の歴史観光資源としても見直されている貴重な史跡です。

■場所

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■城巡り記録

2025年7月12日

黒田官兵衛の出自である小寺家のお城です。

元々小寺家は赤松家に仕えていたわけですが、将来性を考えて秀吉に着くことにした官兵衛の先見性はすごいものがあります。

しかし、あまりにも先を読みすぎて危険視扱いされたため、大名になってもそれほど石高がもらえなかったとか。

それまでの働きからしたら確かに物足りないものがありますね。

しかし、この出発点で付く方を間違えていたらそれさえも無かったわけですから、やはりさすがということなのでしょう。

そんな御着城ですが、もっと大々的にアピールしても良いと思うのですが、姫路城が強すぎるのか、こちらを訪れる人はごくわずかなのかもしれません。

黒田官兵衛が好きなら一度は訪れたい場所ですね。

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