■城名
寿能城(じゅのうじょう)
■別名
-
■所在地
埼玉県さいたま市大宮区寿能町
■見ごたえ
★★
■築城年
永禄3年(1560)
■築城者
潮田資忠
■主な城主
潮田資忠
■城分類
平城
■歴史
寿能城は、永禄3年(1560年)頃に岩槻(岩付)太田氏の岩付城の支城として築かれました。初代城主は、岩付城主・太田資正の四男(または五男)である潮田資忠で、母方の姓を名乗りました。城は大宮台地の中央部、氷川神社の背後に位置し、かつては北と南に見沼の入江が広がり、天然の要害を形成していました。また、岩付城と河越城の中間にあり、戦略的にも重要な拠点であったと考えられます。
その後、資正の嫡男・太田氏資が後北条氏に属して岩付城主となると、寿能城も北条方の城となりました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、城主の潮田資忠・資勝父子は小田原城に籠城し、4月18日に戦死しました。5月には、寿能城も豊臣方の浅野長政軍に攻められて落城し、多くの家臣やその妻子が見沼に身を投げたと伝えられています。この悲劇に由来する「蛍になった姫」の伝説が、大正から昭和初期にかけて語られました。
その後、寿能城は廃城となり、徳川家康の支配下で周辺の開発が進められました。元文3年(1738年)には、資忠の子孫である潮田資方が、遺臣の北沢甚之丞に命じて資忠の墓碑を城跡に建立しました。
1926年(大正15年)には、城跡が埼玉県の史跡に指定されましたが、太平洋戦争中に高射砲が設置され、遺構の破壊が進みました。この高射砲は当初、大宮公園陸上競技場に設置される予定でしたが、反対の声により城址へ移されました。
終戦後、城跡の市街化が進み、1958年(昭和33年)に**寿能公園(0.387ヘクタール)**として整備され、開園しました。しかし、城の面影はほとんど残っていません。1962年(昭和37年)には、史跡指定が旧跡へと変更されました。現在、寿能城跡には資忠の墓碑が残るのみとなっています。
■場所
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■城巡り記録
2025年1月30日
現在は普通の公園になっています。
バイクで行ったので立ち寄ってみました。
ちゃんと寿能城跡の看板まであります。
少し台になっていて、そこには石碑と説明が。
ちょっと読みにくいのですが、別に読みやすい説明版もありましたのでそちらを読みました。
これからいく岩槻城の支城だったようですね。
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