■城名
三箇城(さんがじょう)
■所在地
大阪府大東市
■見ごたえ
★
■築城年
文明年間(1470年)ごろ
■廃城年
天正12年(1584年)
■築城者
畠山義就か?
■主な城主
三箇頼照、三箇頼連
■天守
なし
■城分類
平城
■歴史
三箇城は、大阪府大東市の深野池(現・寝屋川市周辺)西側に位置する複数の島々で構成されていた城で、池の水位によって3つから4つの島に分かれていたとされています。築城時期は明確ではないものの、畠山義就と畠山政長が河内国の支配を巡り争った1470年頃と考えられており、文明3年(1471年)には義就方の武将・遊佐五郎が三箇に立て籠った記録があります。当初は野崎城の、後には飯盛山城の支城として機能しました。
三箇城は、戦国期の三好長慶による支配下で重要な拠点となりました。永禄3年(1560年)、長慶が河内国を支配した際には、その領国支配の拠点として飯盛山城を本拠地とし、三箇城にはその配下の三好政成が守将として配置されました。しかし、永禄4年(1561年)に畠山高政が奇襲を仕掛け、三箇城を奪取し、政成を討ち取るなど一時的に勢力を盛り返しましたが、長慶勢が再び河内を掌握しました。
三箇氏は畠山政長に従ってこの地に移住し、大和国宇智郡出自とされています。記録には三箇頼照の代から登場し、永禄5年(1562年)、頼照はロレンソ了斎の説教を通じてキリシタンに改宗し、一族と共に洗礼を受けました。頼照は長慶亡き後、三好義継に従い、義継が敗れると織田信長に降伏し、本願寺勢の侵攻を防いで信長に仕えましたが、天正5年(1577年)には毛利氏との内通の疑いをかけられ、一時的に謹慎となりました。その後許され、家督を子の頼連に譲っています。
本能寺の変(1582年)では明智光秀側につきましたが、山崎の戦いで光秀が敗北したため、頼照親子は領地を捨て逃亡。城と城下町は織田方に焼き払われ、三箇氏の支配は終焉を迎えました。その後、キリシタン武将の結城如安が城主となりましたが、小牧・長久手の戦いで戦死し、天正12年(1584年)頃に廃城となったとされています。
■場所
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■城巡り記録
2024年8月9日
三箇城址は三箇菅原神社になっています。
特に遺構は残っていないみたいですが、大きな木の根元に三箇城址の石碑がありました。
この神社が大東市総社のようです。
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキング
お城巡りランキング
お城・史跡ランキング