■城名
淀古城(よどこじょう)
■別名
藤岡城、淀城
■所在地
京都市伏見区
■見ごたえ
★
■築城年
室町時代中期
■廃城年
1595年(文禄4年)
■築城者
畠山政長
■主な改修者
明智光秀、豊臣秀長
■主な城主
薬師寺元一、細川氏綱、三好義継、金子某、木村重茲
■天守
不明
■城分類
平城
■歴史
文明10年(1478年)8月1日付で「山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す」と記されており、山城の守護所としての役割が記されています。これは、山城の守護であった畠山政長が応仁の乱に際して西軍の畠山義就に備え、守護所を勝竜寺城から淀古城へ移したと考えられています。
その後、明応2年(1493年)以降に細川氏が山城国の支配を確立すると、淀古城は細川氏に従う守護代級の被官によって守備されるようになりました。この城は、摂津国や河内国への抑えとしても重要な戦略的拠点であり、守護代を中心に拠点として利用されました。その後も城は戦国時代を通して改修が加えられつつ、重要拠点として用いられてきたと考えられています。
1504年(永正元年)に、畠山尚順が軍事と交通の要地である淀古城に攻勢をかけました。この際、細川政元の命で、淀古城には神保与三佐衛門のほか、薬師寺兄弟や香西元長などが入城し、攻防の準備が整えられていました。しかし、政元の家臣であった薬師寺元一が政元に反旗を翻し、養子の細川澄元を擁立する謀反を起こします。元一に呼応した赤沢軍と山城国人衆が淀古城に籠もりましたが、元一の弟・長忠が細川側について城を攻め、元一と赤沢軍は敗北、元一は自害しました。この一件により、畿内全域での畠山氏と細川氏の対立が本格化します。
その後、淀古城は三好政権に移り、1559年(永禄2年)に三好長慶が畿内を統一した際、三好氏の武将が城主に任じられました。1568年、織田信長が上洛すると、淀古城も織田軍に焼き討ちに遭い、落城しました。このように淀古城は、畠山氏、細川氏、三好氏、織田氏といった有力者たちの支配を経て、激動の戦国時代を象徴する要塞としての役割を果たしていました。
1573年(元亀4年)2月、15代将軍・足利義昭は信長への反抗を決意し、二条御所で挙兵しますが、信長の圧力に屈し一度降伏します。しかし同年7月、義昭は槇島城に籠城して再度反旗を翻します。この際、三好三人衆の1人・岩成友通が義昭の援軍として淀古城に立て籠もりましたが、槇島城は織田軍に攻め落とされ、義昭は降伏し河内へ逃れました。
淀古城には岩成友通が籠城し、木下秀吉(後の羽柴秀吉)率いる織田軍と対峙します。秀吉は淀古城の番頭である大炊頭義元や諏訪飛騨守三將を味方に引き入れ、さらに近隣の勝竜寺城城主・細川藤孝も加勢しました。友通は勇敢に奮戦しましたが、最後は藤孝の家臣・下津権内に討たれ、友通の首は信長のもとへ送られました。
その後、1582年(天正10年)に明智光秀が本能寺の変を起こし、光秀は山崎の戦いに備えて淀古城を改修しました。光秀が敗れた後は秀吉が天下を治め、1589年(天正17年)には秀吉の弟・豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉の側室である茶々(淀殿)の居所としました。ここで秀吉の子・鶴松が誕生しますが、1591年(天正19年)に鶴松は夭折しました。
その後、秀吉の甥・秀次が後継者となりますが、淀殿が秀頼を産むと、秀次と秀吉の関係に軋轢が生じ、1595年(文禄4年)、秀次は切腹に追い込まれ、城主であった木村重茲も連座して処刑されました。淀古城も廃城となり、その歴史は幕を閉じました。
■場所
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■城巡り記録
2024年8月8日
秀吉の側室である茶々が淀殿として秀吉の子鶴松を産んだ場所です。
しかし、歴史を調べてみると秀吉が作ったお城というわけではなく、それ以前の応仁の乱の頃から重要な拠点として扱われていた場所のようです。
まぁ茶々もこの場所にいたから淀殿と呼ばれるようになったわけで、淀城の方が先ですね。
現在の淀城は江戸時代に建てられた城で、元の淀城の場所はこの淀古城。
現在は妙教寺というお寺になっています。
お寺の中に入って遺構でも探そうかと思っていたのですが、門の前に「諸事情により見学は出来ない」との文言が張られておりました。
残念。
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