■城名
新府城(しんぷじょう)
■別名
-
■所在地
山梨県韮崎市中田町中条字城山
■見ごたえ
★★★
■築城年
天正10年(1582)
■廃城年
天正18年(1590)
■築城者
武田勝頼
■主な改修者
徳川家康
■主な城主
武田氏、徳川氏
■城郭構造
連郭式
■城分類
平山城
■縄張
甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城です。
西側は侵食崖で、東に塩川が流れています。
石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持ちます。
ちなみに本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられています。
■歴史
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)において、武田方は織田・徳川連合軍に大敗し、それ以降、武田勝頼は長篠敗戦後に領国支配を強化しました。
『甲陽軍鑑』によれば、天正9年(1581年)3月には御一門衆で甲斐河内領・駿河江尻領を領する穴山信君(梅雪)が勝頼に対し、新たな築城を献策したといいます。
築城は天正9年(1581年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住、武田家の本拠地は躑躅ヶ崎館から新府城に移転しました。
天正10年(1582年)、武田勝頼は信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵しますが、織田・徳川連合軍に阻まれて帰国しました。
織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、武田勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、新府城に火をかけて廃城にしました。
この時、新府城は築城途中のまだ未完成の城でした。
その後、武田勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で小山田信茂の謀反・裏切りにあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡しました。
■遺構
曲輪、土塁、横堀(空堀)
■指定文化財
国史跡
■ご城印
■場所
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■城巡り記録
2023年8月6日
武田勝頼の作った城、新府城に行ってきました。
武田勝頼といえば、武田信玄の跡を継いだ大名ですが、一般的には評価は高くありません。
甲府の躑躅ヶ崎館から何故移ったのか、武田家は人は石垣人は堀ではなかったのか、などいろいろと思っていたのですが、漫画のセンゴク天正記を読んでからイメージが全く変わりました。
以前から、武田勝頼はそれほど愚かな大名ではないとは思っていましたが、この漫画は本当にその見方を変えてくれます。
武田家は三方ヶ原の戦いで大勝し、その後勝頼の時代に長篠の戦いで大敗。ここで有力な家臣を多く失います。
この後すぐに武田家は滅亡したように思えるのですが、実は6年間も存続しており、その間にこの新府城を築城しています。
新府城に向かう前に御城印やスタンプが置かれている韮崎市立民俗資料館に立ち寄ります。
新府城を中心に韮崎市の歴史を学べます。
そこからいよいよ新府城へ。
山の中にあります。
南大手門と看板が出ている方に向かうと開けた場所がありました。
こちらが大手門で、有名な三日月堀と丸馬出があります。
平地に三日月堀があるのかと思っていたのですが、三日月堀からの馬出しがかなりの傾斜になっていたので想像と違っていました。
この斜面を登るのは大変そうです。
その後二の丸を見てから、本丸へ。
かなり開けた場所です。
景色もきれいでした。
武田勝頼の石碑の周りには家臣の名前が刻まれた武田14将慰霊碑があり、改めてそれぞれの武将の活躍を調べたくなりました。
その後ろには藤武神社があります。
そして、そこから階段を降りると下の入口に戻ります。
この階段が結構な段数あって大変なのですが、階段を登るとすぐに本丸に着いてしまうというのも、どうかと思います。
まぁ築城時にはなかった階段だと思いますので、こんなに簡単に攻められる作りのはずはありませんけど。
織田・徳川との決戦のために作られた城ですが、残念ながら戦の舞台とはならず、勝頼自らが廃城にしました。
あまり知られていませんが、一見の価値があるお城でした。
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