「小山田城」14城目@日本の城 #東京都町田市

■城名
小山田城

■別名

■所在地
東京都町田市下小山田町

■築城年
1171年(承安元年)

■廃城年
1590年(天正18年)

■築城者
小山田有重

■主な改修者
太田道灌

■主な城主
小山田有重、扇谷上杉氏、北条氏

■天守
なし

■城分類
平山城
■歴史
治承・寿永の乱において小山田有重は頼朝に従い東国に下向したと見られ、有重の子息は一ノ谷の戦いなど西国へも出陣しています。
畠山重能の動向は不明ですが、重能子息の重忠、有重子息の稲毛重成、榛谷重朝が頼朝に仕えています。
こうして小山田一党は秩父党の重鎮とし頼朝の鎌倉幕府創立に功を立て、本領である小山田荘は有重の子息により分割相続されたと見られていますが、稲毛荘や重朝の入部した榛谷御厨、比定地未詳の「出田」の地や武蔵小沢郷に進出していたと見られています。

『吾妻鏡』によれば、文治元年(1185年)10月には頼朝の弟義経が後白河法皇と結び頼朝に背き、同年11月11日には義経の舅である河越重頼が所領を没収され、殺害されています。
これにより秩父氏の家督は畠山重忠が継承し、重忠や重成・重朝兄弟ら秩父一族は義経を匿った奥州藤原氏の討伐にも参陣しています(奥州合戦)。

奥州合戦により治承・寿永の乱は集結し、頼朝による鎌倉幕府が開創されますが、『吾妻鏡』によれば幕府儀礼において重成・重朝兄弟が重用されていることが確認されます。

元久2年(1205年)、一族の畠山重忠の乱に巻き込まれてほとんどが粛清されました。

桓武平氏秩父氏流の小山田氏(おやまだし)は、秩父重弘の子・有重が武蔵国小山田荘(東京都町田市上小山田町・下小山田町)を本領としたことに由来します。

この一族から、鎌倉時代に甲斐国へ移り甲斐東部の都留郡(郡内地方)のうち谷村(都留市)を本拠とし勢力を振るった甲斐の小山田氏が出たといわれています。


■遺構 曲輪、土塁、堀切、空堀、馬出
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■城巡り記録

2022年10月1日

小山田城は現在は大泉寺(大泉禅寺)となっています。

こちらのお寺は曹洞宗のお寺で、武相四十八観音霊場の第11番目札所となっているそうです。

門はものすごく古いもので、これだけで歴史を感じました。

本堂も立派です。

お寺にはたくさんの羅漢像が置かれていました。

お寺の横に小山田氏の供養塔があります。

小山田城址の石碑もありました。

こちらで小山田氏のことを学べます。

現在テレビで放送されている鎌倉殿と13人で有名な畠山重忠の親族であり、元は秩父氏から分家したようです。

そして、畠山重忠と共に初代執権となった北条時政により誅殺されたそうです。

この時代は同じ坂東武者同士が争うとんでもない時代だったことを感じます。

そんな小山田氏の城跡です。

直前に見た小野路城はこの小山田城の支城らしいです。

お墓を上に登ると山道がありました。

さらに上ると虎口に出ました。

竹林の雰囲気のあるばしょです。

ふと見るとそこには大量の羅漢像が置かれていました。

すぐ横には本丸跡の石碑があります。

この先はお寺の許可がいります。

こちらに来る道も本堂の右側から来るのが正解だったようです。

すごい山道を登ってしまいましたが、正しい道を通ってくると羅漢像にずっと出迎えられるみたいですね。

人気が無く、静かな場所です。

お寺がこのお城跡をしっかりと守ってくれているのですね。

感謝です。

本丸はしっかりと整備されていますが、ちゃんと許可をとって入るようにしましょう。

しかし、これだけの立派な羅漢像が並んでいるので、この場所は実はすごい場所ではないかと思います。

もっと宣伝すれば人がたくさん来ると思いますが、お寺と檀家の人で守りたいのかもしれません。

見ごたえのあるお城でした。

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