■城名
津城
■別名
安濃津城
■所在地
三重県津市丸之内
■称号
続日本100名城、ご城印のある城
■築城年
永禄年間(1558年 – 1569年)
■廃城年
明治4年(1871年)
■築城者
細野藤敦
■主な改修者
織田信包、藤堂高虎
■主な城主
細野氏、織田氏、富田氏、藤堂氏
■天守
非現存
■天守構造
5重(織田期・1577年築)
■城郭構造
輪郭式
■城分類
平城
■縄張
北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていました
■歴史
戦国時代の永禄年間(1558年 – 1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まります。
永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。
翌年には織田信包が入城しました。
信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備し、天正5年(1577年)には5重天守と小天守を落成しました。
豊臣家の時代になると、文禄3年(1594年)信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌文禄4年(1595年)7月、豊臣家家臣の富田一白が5万石(6万石とも)を与えられ入城しました。
一白の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃されます。
迎える信高と援軍にきた分部光嘉の連合軍は1,300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失しました。
奮戦の末、木食応其の調停により開城となりましたが、この奮戦により戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けます(安濃津城の戦い)。
慶長13年(1608年)信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城しました。
高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備しました。
以後、明治維新まで藤堂氏の居城となりました。
大坂の陣の功により元和元年(1615年)と元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、藤堂氏は32万3,000石の大大名となりました。
■遺構
石垣、堀
■再建造物
昭和33年(1958年)に丑寅櫓跡に隣接する多聞櫓跡地にコンクリート製の模擬隅櫓(三重櫓)が復元されましたが、旧来の丑寅櫓とは場所も形も全く異なっており、史実を無視した観光用の模擬櫓です。
■ご城印
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■城巡り記録
2022年7月23日
真夏の暑い時期に津城に行ってまいりました。
最寄り駅の津新町駅から歩いて行きました。
こちらは続100名城。
スタンプはすぐ隣にある高山神社の入り口に置かれていました。
早速先に押します。
スタンプも押せたので、津城に向かいます。
お堀の池にはたくさんの亀がいました。
もしやこれは外来種では。
池の水抜いちゃいましたの場所になりそうですね。
お堀の石垣を見てみたのですが、こちらが凄いです。
津城といえば藤堂高虎。
藤堂高虎といえば、縄張の名人で、石垣も立派なものが多いのですが、こちらの石垣は時代が建っているせいか、隙間が凄いです。
この隙間だといつ崩れてもおかしくないのではと思ってしまいました。
中に入ると津城の説明文があります。
織田信長の弟織田信包(のぶかね)が築き、藤堂高虎が大改修したお城です。
入り口に赤い目立つ門が残っていました。
こちらは江戸時代に藩校がつくられ、その入り口となる門だそうです。
「大学は諸学徳に入る門なり」から入徳門という名前になったとか。
立派な門ですね。
そして瓦にはしっかりと藤堂家の家紋である蔦が描かれています。
中は日本庭園となっていますが、戌亥櫓跡の高石垣などきれいに残っていました。
そして、津城で戦後再建されたものとして、丑寅櫓があります。
お堀の広さがよく分かりますね。
こちらが再建された丑寅櫓です。
そこから中心となる本丸に向かいます。
本丸跡には大きな藤堂高虎像がありました。
こちらはかなりかっこいいですね。
藤堂高虎はいろいろなお城を築城していますが、しっかりとした像になっているのは津城が一番ではないでしょうか。
津が中心となり、藤堂家が治めていたためかと思います。
藤堂高虎が築いた石垣を堪能しました。
良いお城だと思います。
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