■城名
黒井城(くろいじょう)
■別名
保月城、保築城
■所在地
兵庫県丹波市春日町黒井
■見ごたえ
★★★★
■築城年
建武年間(1334〜1338)
■廃城年
天正12年(1584)
■築城者
赤松貞範
■主な改修者
赤井直正、斎藤利三、堀尾吉晴
■主な城主
赤松氏、赤井氏、斎藤利三、堀尾吉晴
■天守
不明(天守台あり)
■城郭構造
連郭式
■城分類
山城
■遺構
曲輪、石垣、横堀(空堀)、堀切、土塁
■指定文化財
国史跡
■歴史
黒井城(くろいじょう)は、兵庫県丹波市春日町に位置する中世山城で、戦国時代における丹波地方の要衝として重要な役割を果たしました。標高356メートルの猪ノ口山に築かれたこの城は、尾根筋を活かした連郭式の構造を持ち、丹波の国を南北に結ぶ交通の要衝を抑える軍事的な拠点として、戦国武将たちによる争奪の舞台となりました。
黒井城の創建時期は明確ではありませんが、南北朝時代にはすでに存在していたと考えられており、室町時代以降、丹波守護の細川氏が丹波を支配する中で、黒井城もその支城のひとつとして整備されていたとされます。戦国期に入り、守護代の内藤氏の配下として頭角を現した荻野氏(のちの赤井氏)が黒井城を掌握します。
特に著名なのが、赤井直正(あかい なおまさ)です。直正は「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将で、丹波各地の国人領主たちを次々と服属させ、黒井城を拠点にして勢力を拡大しました。彼は当時、織田信長の命を受けて丹波平定を進めていた明智光秀に対して強く抵抗し、光秀にとって大きな障害となりました。光秀は1575年(天正3年)から丹波侵攻を開始しますが、黒井城を攻略できずに一時撤退を余儀なくされるなど、赤井直正の防衛能力は非常に高かったといえます。
しかし1578年(天正6年)、赤井直正は病没し、家中の結束が乱れ始めます。これを好機と見た明智光秀は、再び丹波に侵攻。1579年、黒井城はついに落城し、明智軍の手に落ちました。以後、黒井城には光秀の家臣・斎藤利三らが入城し、丹波の支配を固める拠点となりました。
その後、丹波国は豊臣秀吉の勢力下に入り、黒井城も豊臣政権下で用いられましたが、天下統一の進展とともに山城の重要性は次第に薄れ、関ヶ原の戦い後には廃城となったと考えられています。
黒井城の構造は、山頂に本丸・二の丸・三の丸を段状に配し、南北に延びる尾根筋に複数の郭(くるわ)を配置した堅固な造りとなっています。急峻な地形を活かし、城内には石垣や土塁、堀切、虎口(こぐち:出入口)などの遺構が数多く残り、戦国期の山城としての特徴を今に伝えています。特に本丸からの眺望は素晴らしく、晴れた日には丹波の山々が一望でき、城がいかに戦略的な位置にあったかを体感することができます。
■ご城印
■場所
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■城巡り記録
2025年7月12日
なかなか来れない山城、黒井城にいってきました。
バイクで行ったので、スムーズに行けましたが、山城で続100名城スタンプと御城印と全部場所が別れているので大変です。
まず住民センターに訪れ、続100名城スタンプを押しました。
その後、山城に向かいます。
登城口のところに駐車場があります。
ここから緩やかコースと急坂コースの2つを選べます。
始めてきたので勝手が分からないことと、昨日訪れた有子山城が予想以上に険しい山だったのでビビって緩やかコースにしました。
そして、この山は熊が出るそうです。
こちらは恐ろしいですね。
スマホのスピーカーで音量を最大にして音楽を流しながら進みました。
入口からすぐの場所に門があります。
獣避けの門らしいのですが、作りは少し心もとないです。
熊だったら壊してしまいますね。
鍵を自分で開けて、通ったら締めます。
そこから山の上り坂。
非常に良い感じの山です。
心配していたほどきつい傾斜はなく、楽しく登れます。
石踏みの段に社のようなものがあり、そこで急坂コースと合流します。
その先もそこそこの山道を上っていくとまた門があり、開けて入ると石垣が見えてきます。
山頂部分のみですがしっかりとした石垣があり、曲輪はかなり広く見晴らしも良いです。
本丸まで行くと周りがすべて見渡せます。
思ったほどの疲労もなく、非常に気持ちよく登れました。
30分かからないくらいで登れると思います。
下りはもっと早く、あっという間に降りることが出来ました。
緩やかコースなら登りも降りも良い感じです。
降りてから、道の駅に行き、そこの観光案内所で御城印を購入しました。
非常に良い山城でした。
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