「由木城」91城目@日本の城 #東京都八王子市

■城名
由木城(ゆぎじょう)

■別名
由木(柚木)氏館、大石氏館

■所在地
東京都八王子市下柚木4(永林寺)

■見ごたえ
★★★

■築城年
不明

■築城者
由木氏

■主な城主
由木氏、大石氏

■城分類
平城

■歴史
●由木城の前身と横山党・西党
1.横山党と由木六郎保経:
横山党の一員である由木六郎保経がこの地に館を構えていたとされます。
保経は源頼朝の祖父、源為義の被官であったと推測され、頼朝本人に仕えていたとの説は時代的に矛盾があります。
2.西党と由木三郎大夫重直:
武蔵七党の一つである西党の由木三郎大夫重直も同地域に関わりがあり、彼が由木城の前身となる居館を築いた可能性も指摘されています。
3.横山党の滅亡とその後:
横山党は鎌倉幕府初期の和田義盛の乱(1213年)で滅亡。
これにより、その後に西党の由木氏がこの地域に拠点を築いた可能性が高いと考えられます。

●室町時代の由木城と大石定久
1.山内上杉氏の時代:
室町時代には、関東管領である山内上杉氏に仕える重臣、大石源左衛門尉定久が由木城主となりました。
定久は武蔵守護代を務める有力な武将であり、山内上杉氏の支配体制を支えました。
2.河越城の戦いと北条氏への臣従:
天文15年(1546年)の河越城の戦いで山内上杉憲政が北条氏康に敗北。
この敗北後、定久は北条氏に臣従し、氏康の三男・北条氏照を養子に迎えます。
さらに、居城であった滝山城を氏照に譲り、自身は戸倉城に隠棲しました。

●戦国時代後期の由木城
1.北条氏時代の動向:
北条氏の支配下となった後の由木城についての記録はほとんど残されていません。
八王子城を中心とした北条氏の防衛体制に組み込まれることはなく、重要な役割を果たすことはなかったと考えられます。
2.廃城の時期:
由木城は戦国時代の終盤までには廃城となり、以降の記録はほとんど途絶えています。

案内板より
『永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城に移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(1532年)3月永鱗寺として創建された。
その後八王子城主北條氏照公の助成を受け、天文15年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正15年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅願を受ける。天正19年9月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印十石、公卿格式拾万石を授けられ、赤門の建立が許可された。
叉、永鱗寺の鱗の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。
叉、当地域に十ケ寺の末寺を有する、格地本寺寺院である。
永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葉葵等五つ紋を有しており、往時を偲ぶ事が出来る。』

■指定文化財
市史跡(大石氏居館跡)

■場所

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■城巡り記録

2024年12月1日

八王子にあるあまり有名ではないお城由木城。

この辺が由木と呼ばれているのは由木氏由来の由木城があったためなんですね。

鎌倉時代から存在していたようで、その後山内上杉氏に仕える重臣、大石源左衛門尉定久が由木城主となり、北条方に着いた際には滝山城に移ったことを契機に今のお寺になったそうです。

お寺になってからは、徳川家康が訪れるなど立派なお寺で、今も十分門構えから立派でした。

そんなお寺の裏山が由木城。

しっかりと看板などもあり、さらに進むと由木城址の石碑があり、その近くに大石定久の像もありました。

そこから山に入っていくと奥の方に金峰不動尊が鎮座しています。

ここまで訪れる人は少なそうですね。

お寺と含めて見学させていただくと非常に楽しめます。

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