「久保田(窪田)城」26城目@日本の城 #千葉県袖ケ浦市久保田

■城名
久保田城

■別名
窪田城

■所在地
千葉県袖ケ浦市久保田字浜宿

■築城年
天文年間(1538年~1551年頃)

■廃城年
天正18年(1590年)

■築城者
武田信政(真里谷信政)

■主な城主
真里谷氏、里見氏、北条氏

■城分類
平山城

■縄張
市原市椎津の椎津城の西南2.5kmの距離にあり、内房線姉ケ崎 – 長浦間の線路沿いの高台の上にあります。
東京湾沿いの高台にある平山城で、6つの郭から成り、380m×230mの城址となっています。

■歴史
天文21年(1552年)、小田原の北条氏康は、椎津城の武田信政と万喜城(夷隅町万木)の土岐頼定を味方に引き入れようとしました。
武田信政は北条と結びましたが、土岐頼定は拒絶して里見氏に注進したため、里見義堯、義弘父子は、機先を制して武田信政の椎津城攻略に向かいます。
里見軍は、武田信常の守る久保田城を包囲しましたが、後詰がなく落城必至とみて武田信常は椎津城に向けて脱出しましたが、笠上川ほとりで討死しました。
天文21年(1552年)11月4日、里見義堯は、土岐頼定(万喜城)、正木時茂(大多喜城)を先方に2千の兵で、武田信政が北条氏の援軍を含む1千の兵で守る椎津城に攻撃しました。
この戦いで武田方は敗れ、武田信政は城に火をかけ城中で自刃しました。

武田一族は、この戦いに駆けつけ、笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死しました。
この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入ります。

天文21年(1552年)の「椎津合戦」後、北条氏と下総方面に進出する里見氏との間で椎津城、久保田城の争奪戦が繰り返されました。
天正期の椎津城やその前面の久保田城は、北条氏にとって里見支配領域との境目を押さえた重要な城でした。
北条氏は、ここに原氏や高城氏、酒井氏といった武将たちに交代で城番を命じています。

天正5年(1577年)、北条氏政と里見義弘の間で和睦し同盟が結ばれ(房相一和)、豊臣秀吉の小田原攻めが動き出すまで、両者の間では直接大きな戦は起きませんでした。

天正18年(1590年)の小田原征伐による豊臣軍の房総侵攻により、椎津城が落城したことから、久保田城もその際落城しました。

■場所

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■城巡り記録

2022年11月10日

椎津城の支城であった久保田城に行ってみました。

このお城は、武田信政が築城し、里見氏や北条氏が争っていました。

こちらの城跡はなにかあるかと思ったのですが、行ってみると成龍寺というお寺が建っていました。

グーグルマップでは、その隣の丘のような場所を示していましたがそちらにも何も無さそうです。

こちらのお寺は立派なお寺で、坂道には仏塔が多数建っており、上った先の庭も素晴らしく整備されています。

きっとこの辺もお城の一部だったのでしょう。

里見と北条の戦いが繰り広げられた場所ですが、今となってはどのような戦いであったか分かりません。

目をつぶって当時を想像するしか無さそうです。

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