■城名
土屋城(つちやじょう)
■所在地
神奈川県平塚市土屋
■見ごたえ
★★
■築城年
平安時代末期
■廃城年
応永23年(1416)
■築城者
土屋三郎宗遠
■主な城主
土屋氏
■城分類
平山城
■歴史(ChatGPTより)
神奈川県平塚市土屋にある「土屋城跡(つちやじょうあと)」は、中世相模国の有力土豪・土屋氏の館跡と伝えられる史跡である。現在は明確な城郭遺構こそ残されていないが、周辺の地形や地名、古文書などから、この地が中世武士団の拠点として機能していたことがうかがえる。城跡は小高い台地上に位置し、相模平野を一望できる自然の要害を活かして築かれたと考えられる。
土屋氏の祖とされるのは、桓武平氏良文流・中村党の出身である土屋宗遠(むねとお)である。宗遠は鎌倉幕府の草創期に活躍した人物で、源頼朝に仕え、石橋山の戦いなどで功を立てたと伝わる。宗遠はまた、三浦義継の娘を妻としたことから三浦氏との姻戚関係を結び、以後、土屋氏は三浦一族の有力な支流としてこの地に勢力を保った。こうした背景から、土屋館(のちの土屋城)は、三浦氏系武士の勢力圏南端を守る要衝として重要な位置を占めていたと考えられる。
鎌倉時代から室町時代にかけて、土屋氏は代々この地を領し、地域の支配と防衛の拠点として館を維持した。中世の「城」は、石垣や天守を備えた近世城郭とは異なり、館を中心に堀や土塁を設けて防御機能を高めた「城館」としての性格を持っていた。土屋城跡もその典型で、周囲の谷や崖地形を自然の防御線として利用していたと推定される。
しかし、江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』では「遺形と覚しき所なし」と記されており、すでに当時から明確な遺構は失われていたようだ。現在、城跡の範囲は大乗院付近とされ、寺の南側に堀切状の地形が残るほか、土屋氏の墓所と伝えられる区画が存在する。これらの地形や地名の痕跡が、往時の館・城館の存在を今に伝えている。
戦国時代に入ると、土屋氏は北条氏の支配下に組み込まれたと考えられる。詳細な記録は乏しいが、相模一帯が北条氏によって統一される過程で土屋城もその勢力圏に吸収されたとみられる。その後、城館としての役割を失い、自然と廃城となったようである。
現在の土屋城跡は住宅地と田畑に囲まれた静かな丘陵にあり、かつての面影をたどるのは容易ではない。しかし、よく観察すれば、わずかな段差や崖地形に中世の館の輪郭を感じ取ることができる。石垣や櫓を持たない「土の城」であったために痕跡は淡いが、その分、地形そのものが歴史の証人であるともいえる。
土屋城跡は、豪族が築いた館跡としての性格が強く、相模国の中世支配構造を知るうえで貴重な史跡である。華やかな城郭のような遺構はないものの、土屋氏の館がこの地で地域を治め、時代の波に呑まれて消えていった歴史を静かに物語っている。現在も平塚市の文化財に位置づけられ、訪れる人々に中世武士の生活とその終焉を想像させる場所として残されている。
■場所
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■城巡り記録
2025年10月19日

岡崎城や真田城との結びつきが強かった土屋氏の城跡。


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