■城名
長山城(ながやまじょう)
■別名
亀山城、平蓮寺山城
■所在地
山口県山口市亀山町
■見ごたえ
★★★
■築城年
不明
■築城者
大内氏家臣
■主な改修者
毛利秀元
■城分類
山城
■遺構
曲輪、堀切、土塁、虎口
■歴史(ChatGPTより)
長山城(ながやまじょう)は、山口県山口市嘉川に所在する戦国時代の山城である。城が築かれた正確な年代については文献が乏しく定かではないが、室町時代後期から戦国時代にかけての築城と考えられている。築城者も明確には伝わっていないが、大内氏の家臣筋や、嘉川地域を支配していた国衆が関与したとみられている。山陽道沿いに位置し、防長両国を支配した大内氏の本拠・山口館(大内氏館)を守る衛星的な城郭であったと推測される。
戦国時代、山口を本拠とした大内氏は、中国地方を代表する有力戦国大名であった。長門・周防を本国とし、山陽道を西へ進んで安芸や石見に勢力を伸ばし、さらに九州北部にも影響力を及ぼしていた。長山城はその大内氏の支配体制を支える地方拠点のひとつとして築かれ、嘉川地域を押さえつつ、防府方面から山口への侵攻を防ぐ軍事的要地を担ったと考えられる。
しかし16世紀半ば、大内氏の衰退とともに長山城も戦乱に巻き込まれていく。大内義隆が尼子氏や陶晴賢との抗争の中で勢力を失うと、1560年の「大寧寺の変」により大内氏は滅亡した。その後、防長二国は毛利元就の勢力下に入り、長山城も毛利氏の支配下に組み込まれた。毛利氏は拠点を萩城へと移すまで山口を重要な拠点としたが、嘉川の長山城はあくまで支城・防衛拠点の性格を持ち続けた。
江戸時代初期、関ヶ原の戦いを経て毛利氏が防長二国に減封されると、萩城を中心とした支配体制が築かれた。この時代になると山口の周辺に散在した戦国期の山城は役割を終え、長山城も廃城となったとみられる。具体的な廃城年代は不明だが、江戸初期の城郭整理の一環として放棄されたと推測される。以後は城として使われることなく、山林の中に埋もれていった。
現在、長山城跡には往時の姿を伝える遺構が残っている。山頂部の曲輪跡は削平地として明確に確認でき、また尾根を断ち切る堀切や、土を盛り上げて防御線を築いた土塁が現存している。出入口にあたる虎口の構造も一部確認でき、戦国山城の特徴をよく示している。石垣や天守台といった近世城郭的な設備はなく、純粋に土の城としての姿が残されている点に価値がある。
長山城の歴史的意義は、大内氏から毛利氏へと移り変わる時代の中で、地域を支えた防衛拠点であったことにある。山口市内に残る大内氏館跡や、毛利氏ゆかりの遺構とともに見ると、防長地域の戦国史を理解する手がかりとなる。今日では地元の保存活動も行われており、登山道をたどれば比較的容易に遺構を見学できる。規模は大きくないが、戦国時代の山城がどのように築かれ、防御を意識していたのかを学ぶには格好の場といえる。
長山城は、華やかな天守をもつ近世城郭のような姿は残していない。しかし、大内氏や毛利氏の歴史の中で確かに役割を果たし、その痕跡は今も山中に息づいている。遺構のひとつひとつをたどることで、戦国の武士たちが守ろうとした地域の姿や、城を中心に広がった人々の暮らしを想像することができるのである。
■場所
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■城巡り記録
2025年8月9日
現在は亀山公園となっている場所は当時長山城というお城だったそうです。
こじんまりとはしていますが、階段が整備されていなければ結構険しい山城。
階段をぐんぐん上っていきます。
登った先は広場になっていて、公衆トイレや自動販売機など結構ちゃんと整備されています。
中央には毛利敬親の像があります。最後の長州藩主です。
景色を眺め見ると高嶺城が見えます。
庭園風の池などもあり、景色も良い場所なので現代では憩いの場所として良い場所だと思います。
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