「河村城」136城目@日本の城 #神奈川県

■城名
河村城(かわむらじょう)

■別名
戸張城、猫山城

■所在地
神奈川県足柄上郡山北町字山北他

■見ごたえ
★★★

■築城年
南北朝時代”

■廃城年
天正18年(1590)

■築城者
河村秀高

■主な城主
河村氏、大森氏、後北条氏

■城分類
山城

■遺構
曲輪、堀切、横堀(空堀)、井戸

■指定文化財
県史跡(河村城跡)

■歴史(ChatGPTより)
河村城(かわむらじょう)は、神奈川県足柄上郡山北町に位置する中世山城で、その成立は平安時代末期にまでさかのぼるとされる。築城者は、俵藤太として知られる藤原秀郷の系譜にあたる河村秀高で、河村氏はこの地を本拠として足柄地域に勢力を広げた土豪であった。城の立地は丹沢山地の南面に張り出す尾根上で、酒匂川とその支流を望む交通の要衝にあり、東西交通の制圧と防衛に適した戦略的価値の高い拠点であった。

南北朝時代に入ると、河村氏は南朝方に属し、新田義興や脇屋義治と協力して北朝・足利方と対立した。1352年(正平7年・文和元年)には、河村秀国・秀経らが新田義興らと共に河村城へ籠城し、足利尊氏の配下である畠山国清が率いる大軍と対峙した。この籠城戦は約2年間続いたとされ、河村城が堅固であったこと、そして河村氏や新田勢の抵抗が強烈であったことを物語る。しかし、最終的には南原の戦いで新田方が敗北し、河村城は陥落した。河村一族の多くが討死し、義興と義治は中川城を経て甲斐方面へ落ち延びたと伝えられる。この敗北により、河村城は南朝方の拠点としての役目を終えることになった。

その後、城は畠山国清の支配下に入り、さらに関東管領上杉憲実、そして足利持氏の家臣で大森氏の一族である大森憲頼へと支配権が移った。河村城は足柄地域の軍事的要地として重視され続け、室町時代を通して支配者が変遷しながらも城郭としての機能を維持した。

戦国時代に入ると、城は後北条氏の勢力圏に組み込まれ、相模支配のための重要な山城として位置づけられた。特に元亀年間(1570~1573)には、武田信玄が駿河から相模への侵攻を試みた際、北条氏は河村城を防衛線の一つとして補強し、周辺の諸城とともに武田氏との攻防に備えた。足柄地方は後北条氏と武田氏が境界を接する緊張地帯であり、河村城はその最前線として軍事的重要性を増していったと考えられている。

しかし、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、河村城も同時に廃城となった。これをもって、中世以来存在した山城としての役割は完全に終わり、城域は次第に山林へと戻っていった。

現在、城跡は「河村城址歴史公園」として整備されており、本丸や複数の郭、畝堀、土橋など典型的な戦国期山城の遺構を確認することができる。一方で、多くの部分が山林化して見通しが悪く、公園整備が十分に行われていないと指摘されることもある。また、土橋にコンクリートが使用されているなど、歴史的景観を損ねる部分も存在する。しかし、往時の地形をよく残しており、足柄の中世史を語る上で欠かせない城跡であることに変わりはない。登山道としても楽しめる自然豊かな場所であり、中世の山城の雰囲気を今に伝える貴重な歴史遺産となっている。

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2025年12月5日

結構な山道を登っていきます。

上った先に駐車場が車3台分くらい留まれる場所がありました。

そこからは整備された山道を進みます。

結構気持ちの良いみちでした。

それにしても誰もいません。

上った先が開けた場所。

しっかり各種案内がありました。

思った以上にしっかりした場所です。

県指定史跡なのに、チャッピーはあまり説明してくれませんでした。

さらに進むと展望台のようになった場所があります。

御城印が観光案内所で売られているとのこと。

これは後で買いに行きます。

展望台からは小田原の町が一望できました。

すごい良い立地ですね。

堀切の案内などもあります。

しっかり石碑もありました。

そして、すぐ近くにちゃんとしたトイレもあり、奇麗でした。

しっかり整備されています。

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