■城名
苅野丸山城(かりのまるやまじょう)
■別名
苅野丸山、丸山城
■所在地
神奈川県南足柄市苅野
■見ごたえ
★
■築城年
戦国時代
■廃城年
天正18年(1590)
■築城者
松田憲秀
■城分類
丘城
■遺構
曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀
■歴史(ChatGPTより)
苅野丸山城(かりのまるやまじょう)は、神奈川県南足柄市苅野の丘陵上に築かれた中世の山城で、戦国期に松田氏が利用したとされる小規模城郭である。現在は城跡として大規模な遺構こそ残されていないが、尾根の形状や曲輪跡、切岸・空堀などの痕跡が確認でき、地域を支配した地侍・国衆が拠点として利用した城館の特徴をよく残している。城の所在地である苅野は、相模国と駿河国の境に近く、古くから交通の要衝であり、戦国期には北条氏の支配領域の周縁部として戦略的な価値を有していた。このため、周辺には足柄城・深沢城・神山城など北条氏の支城群が点在し、苅野丸山城もその一端を担っていたと考えられる。
築城者は松田憲秀と伝わっている。松田氏は北条氏の有力家臣団であるが、戦国後期には憲秀が小田原北条氏に対して内通の疑いをかけられ、処罰されたとも言われる。苅野丸山城が憲秀の勢力下にあったとされるのは、城の性格が“独立した大規模拠点”ではなく、松田氏の管轄する地域を抑えるための支城・砦としての性格が強いからである。ただし、一次史料に乏しいため、築城者や使用年代については明確な記録は残されておらず、地域の伝承・地元の文献による部分が大きい。
城の構造は、丘陵の尾根上に展開する典型的な中小規模の山城である。主郭とみられる平坦面を中心に、周囲には複数の腰曲輪が階段状に配置され、尾根を人工的に切り落として形成された切岸や、敵の侵入を防ぐための横堀・竪堀などの防御遺構が存在したと推測されている。現地には明確な石垣などは見られず、北条氏系の山城に多く見られる土の城の形式である。これらの構造により、少人数の兵であっても地形を利用して効率的に防御できるよう計算されていたと考えられる。
苅野丸山城が歴史に登場するのは、主に戦国後期である。相模国では北条氏が支配を強める一方で、駿河方面では武田氏と今川氏、のちには徳川氏が勢力を争っていた。この地域はそれらの勢力が接する境界の一部であったため、小規模であっても監視・連絡・防御のための砦が不可欠であった。苅野丸山城もまた、足柄峠を越えてくる敵勢を見張り、周辺の村々を掌握し、必要に応じて足柄城など上位の城郭へ情報を伝える役割を担っていたと考えられている。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めが開始されると、小規模砦であった苅野丸山城もその存在意義を失う。小田原城の陥落と北条氏滅亡により、この地域の城郭は大幅に整理され、多くの支城が廃止された。苅野丸山城も例外ではなく、この時期に廃城となったと推測されている。以降、城跡は徐々に畑地・山林へと姿を変え、江戸期以降の文献に城の名が現れることはほとんどない。
現在の苅野丸山城跡は、整備された史跡というよりは、静かな住宅地の裏山のような雰囲気を保っている。かつての曲輪や堀切の痕跡はわずかに残るが、専門的な知識がなければ判別が難しい箇所も多い。それでも、尾根上の地形や人工的な段差を見ると、確かにここに戦国期の城郭が存在したという空気を感じ取ることができる。地域の歴史を知る上でも、また戦国期の小規模山城の姿を知るうえでも貴重な遺跡であると言える。
■場所
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■城巡り記録
2025年12月5日

すごい山道。

さすがに城跡は分からなかった。

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