■城名
岡崎城
■所在地
神奈川県伊勢原市岡崎
■見ごたえ
★★
■築城年
平安時代末期
■築城者
岡崎四郎義実
■主な城主
三浦道寸
■城分類
平山城
■遺構
土塁,堀,井戸
■指定文化財
市指定史跡
■歴史(ChatGPTより)
神奈川県伊勢原市岡崎に所在する岡崎城跡は、伊勢原市指定史跡(昭和44年2月27日指定)であり、相模平野を一望できる台地の先端に築かれた平山城である。城域は約1ヘクタールに広がっていたとされ、平安時代末期から戦国時代にかけて二段階にわたり築城、利用されたことが知られている。前期は岡崎四郎義実の時代であり、三浦義継の四男であった義実がこの地を領有し、自ら岡崎四郎義実と名乗った。義実は源頼朝の挙兵に応じて石橋山の合戦に参戦し、その際の戦功や真田与一義忠との組み討ちなどは浮世絵の題材にもなった。岡崎氏は三浦氏の重臣として地域の支配に関与し、館や城郭を整備したと考えられる。
後期は戦国時代にあたる室町時代末期で、明応3年(1494年)に三浦道寸(義同)が居城とした時期である。道寸は関東進出を狙う伊勢宗瑞(北条早雲)との間で、約17年間にわたる攻防を繰り広げた。岡崎城は周囲を湿地に囲まれ、南は断崖という要害の地に位置しており、防御上非常に優れた立地を有していた。しかし永正9年(1512年)、伊勢宗瑞の猛攻によって落城し、道寸は新井城に籠もったものの、永正13年(1516年)には一族とともに滅亡した。城跡はその後北条氏の支配下に置かれたと考えられるが、廃城となった正確な時期は不明である。
現在の岡崎城跡は、周辺の宅地化や畑地化により往時の城郭構造は必ずしも明確ではない。しかし台地中央の無量寺が城の主要部であったと推定され、周囲から一段高く居館跡の雰囲気を残している。無量寺の西側には三連郭が連なり、尾根上に堀切を設けて防御を図った形跡が見られる。堀切は深さ約4メートル、幅約7メートルで、郭の側面には切岸加工の名残や腰曲輪が確認できる。また無量寺東南角の「火の見」と呼ばれる地点は物見として適した位置であり、城の防衛と監視に重要な役割を果たしたと考えられる。さらに東側の台地先端には「野陣台」という地名が残され、城域の一部として利用されていた可能性がある。
岡崎城は規模の面ではそれほど巨大ではなかったが、周囲の自然地形と人工的な郭・堀切の配置により、効率的な防御が可能な構造を備えていた。三浦氏の居城として地域に長く勢力を保持した歴史的価値に加え、北条氏との攻防史や戦国期の城郭研究においても貴重な資料となる。現在は遺構が部分的に残るのみであるが、無量寺周辺の高台や西側の三連郭、火の見、野陣台などを巡ることで、往時の岡崎城の面影を感じることができる。岡崎城跡は、戦国期相模の地方支配と三浦氏の歴史を知る上で重要な史跡であり、歴史散策の場としても魅力的である。
■場所
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■城巡り記録
2025年10月19日
岡崎城は源頼朝の御家人であった三浦氏の四男がこの地で岡崎氏を名乗ったことから始まったようです。
第二期となる戦国時代には北条早雲に対しても数年間猛攻を防いだことなど、非常に重要な場所だったことがうかがえました。
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