■城名
松倉城(まつくらじょう)
■別名
三木氏城館、松倉城、広瀬城(田中城)、鍋山城、三佛寺城、高堂城
■所在地
岐阜県高山市松倉町城山
■見ごたえ
★★★★
■築城年
天正7年(1579)頃[松倉城]、不明[広瀬城・鍋山城]、平安時代後期[三佛寺城]、天文年間(1532〜1555)[高堂城]
■廃城年
-
■築城者
三木自綱[松倉城]、広瀬氏[広瀬城]、平野安室[鍋山城]、平時輔[三佛寺城]、広瀬利治[高堂城]
■主な改修者
金森長近[松倉城]
■主な城主
三木氏[すべて]、広瀬氏[広瀬城・高堂城]、鍋山(平野)氏[鍋山城]、金森氏[松倉城・鍋山城]、平氏[三仏寺城]、畑氏[三仏寺城]
■城分類
山城
■遺構
曲輪[すべて]、石垣[松倉城・広瀬城・鍋山城]、堀切[松倉城・広瀬城・鍋山城・三仏寺城・高堂城]、畝状竪堀群[広瀬城・三仏寺城]、土塁[鍋山城]
■指定文化財
国史跡[松倉城]、県史跡[他すべて]
■歴史
松倉城の築城時期は、戦国時代の最中、約16世紀後半にあたります。築城したのは三木直頼(みつき なおより)、後に三木自綱(みつき これつな)という武将です。三木氏は元もとは飛騨国の有力国人領主でした。直頼、自綱の時代に勢力を広げ、松倉城を根城にして周辺地域の支配権を確立しました。
松倉城は、現在の高山市内の城山(松倉山、標高約856メートル)という難攻不落の地に築かれていました。城は天然の地形を活用して築城しており、断崖に守られて攻め込みにくく、守備に秀でていました。城内には主郭、二の丸、三の丸という主要な曲輪(くるわ)が配された他、空堀、土塁も設置していました。周辺には家臣の屋敷も構築しており、小城下町も形成していました。
三木氏の最盛期にあって、松倉城は飛騨の中心地というべき地位にあり、近隣の武将も従えていました。三木自綱は上杉、武田、織田という大大名が台頭してくる中、自身の領地を守ろうと苦心しました。
武田信玄の死後、上杉謙信も世を去るという転機にあたって、自綱は織田信長に帰属しました。織田家の後ろ盾もあって三木氏の勢力は安定していましたが、本能寺の変(1582年)後に秀吉が天下の実権を握ってくると、自綱もまた難しい舵取りを迫られます。
秀吉の時代にあって、三木自綱は秀吉に従いますが、最終的に秀吉配下の金森長近(かなもり ながちか)が飛騨に封じられます。若くして勢力を失った三木氏は降伏して松倉城も開城しました。
後に城主となった金森長近は松倉城の守備上の難点もあり、行政の中心地も町の近くの「高山城(城山城、または城山に築城されたものもあって後世「高山城」とよばれます)」に移しました。松倉城は次第に放棄され、最終的には完全に廃城に帰しました。
松倉城の跡地には、現在も空堀、土塁、石垣の痕跡が残っており、城の構造や歴史に関する情報を後世に伝えてくれます。地元の文化財に指定された城跡は、行政の保護のもと、遊歩道も整理され、ハイキングに訪れて歴史に触れたいという方も増えてきています。
城跡から臨む北アルプスのパノラマもまた秀逸です。城のあった理由もよく分かるように、周辺の地形の険しさも実感できます。
松倉城の歴史は、戦国時代という激動の世に翻弄された地域の運命も映し出しています。三木氏という地元豪族の興亡、秀吉の天下統一に伴う権力移動、行政の集約という時代の変化の中に、この城もまた消えていきました。
松倉城の足元に広がる城下町の文化も、この歴史の積み重ねによって形成されたものです。
現在も城跡に足を運べば、かつての城主の視野に広がっていたであろう飛騨の山岳景観、城下の町並みという歴史の舞台に身を置くという体験ができます。
■場所
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■城巡り記録
2025年6月7日

松倉城が国史跡になったというニュースをみて、ちょうど飛騨高山ウルトラマラソンに行くのだから立ち寄りたいと思い、行ってきました。
結構な山なのですが、バイクで行ったのが良かったです。
坂道もするすると登れました。
林道のような道もあり、これは歩いていったらかなり大変だったと思います。
かなり登ったところで松倉シンボル広場があり、そこにバイクを停めて徒歩で登ります。
クマよけの鐘があり、少しビビります。。
思いっきりたたいておきました。
道はしっかりと整備されています。
100mごと位にこのクマよけの鐘。
怖い
少し歩くと石垣が見えてきました。
こんな山奥に見事な石垣が積まれています。
本丸のあった場所からの景色
国史跡となるべく素晴らしいお城です。
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