■城名
勝浦城(かつうらじょう)
■所在地
千葉県勝浦市勝浦字郭内
■見ごたえ
★★★
■築城年
大永元年(1521)
■廃城年
天正18年(1590)
■築城者
武田信清
■主な改修者
正木時忠?
■主な城主
真里谷武田氏、正木氏、植村氏
■城分類
海城
■遺構
曲輪、堀切、横堀(空堀)、切岸
■指定文化財
市史跡
■歴史
— 房総の海に築かれた断崖の海城 —
勝浦城は、現在の千葉県勝浦市に位置し、勝浦湾の東南端に突き出た険しい崖地「八幡岬」に築かれた海城です。天然の断崖絶壁を活かした堅固な要害であり、海からの攻防にも耐える戦略的な構造を有していました。
●築城と初期の歴史
築城の時期や経緯については明確な記録が残っていませんが、一説によれば、大永元年(1521)、上総真里谷城の城主・真里谷武田氏の一族である真里谷信興(または信清)が、安房から北上を図る里見義堯の進出を防ぐために支城として築いたとされています。
その後しばらくの間は、真里谷武田氏一族の居城として機能していましたが、武田家内での内紛や勢力衰退をきっかけに、房総の二大勢力である後北条氏と里見氏が上総地域へと進出するようになります。
●里見氏と正木氏の支配
天文13年(1544)、里見方の正木時茂が大多喜城の真里谷朝信を滅ぼし、その勢力を里見氏の支配下に組み入れた際、勝浦城もまた里見方の城となりました。この頃から、正木氏の一族である正木時忠が城主として入り、「勝浦正木氏」として名を残すようになります。
しかし、時忠はのちに後北条氏に寝返り、勝浦城は一時的に北条方の手に落ちます。これに対し、里見氏は激しい攻勢をかけて奪還し、勝浦城を再び掌握しました。
「お万の布晒し」と憲時の乱
のちに起こった正木憲時の乱では、時忠の子とされる正木頼忠(徳川家康に仕えた「お万の方」の父)が里見義頼に味方したため、憲時側から攻撃を受け、勝浦城は一時落城したといわれています。この戦いの中で、「お万の布晒し」の伝説が生まれたとされています。憲時の乱が鎮圧された後、頼忠は勝浦城主に復帰しました。
●最後の戦いと廃城
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、徳川家臣本多忠勝が房総に進軍。勝浦城も攻撃を受けて落城し、以後、城は廃城となりました。
現在、城の跡地は八幡岬公園として整備され、太平洋を一望できる絶景とともに、かつての戦国時代の面影を今に伝えています。
■ご城印
■場所
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■城巡り記録
2025年3月14日
勝浦城址は今は八幡岬公園となっています。
非常に景色が良くて海も良く見えます。
その一角に勝浦城址の看板があり、あまり人が登らない高台があります。
階段を上ると小さな神社がありました。
公園としてきちんと整備されていて良い場所です。
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