■城名
勝山城(かつやまじょう)
■所在地
山梨県甲府市上曾根
■見ごたえ
★
■築城年
不明
■廃城年
不明
■築城者
油川氏
■城分類
平山城
■歴史
勝山城は、戦国時代の甲斐国において、武田氏の支流である油川氏が拠点とした城として知られています。城主であった油川信恵は、甲斐国守護である武田信昌の子であり、信昌の後継者争いに関連する抗争が城を中心に繰り広げられました。
1508年の勝山合戦では、信昌の子である信縄と信恵の間で抗争が発生し、坊ヶ峰で信恵は大敗して戦死しました。その後も、武田信虎(信縄の子)と信恵の間で抗争が続きました。
さらに、1515年には甲府盆地西部の国人・大井信達に駿河国の今川氏親が加担し、甲斐国へ出兵しています。この際、勝山城や吉田山城(山梨県富士吉田市)が今川勢の拠点となりましたが、1518年には武田氏と今川氏の間で和睦が成立し、今川勢は撤兵しました。
その後、1521年には福島乱入事件が発生し、福島正成が甲府へ侵攻しましたが、甲府市飯田町一帯での戦いで敗退し、勝山城に撤退しました。その後も甲府へ再侵攻しましたが、上条河原の戦いで敗退し、甲斐を退去しました。
天正壬午の乱(1582年)では、武田氏の滅亡後、甲斐国を巡る徳川氏と後北条氏の争いが発生し、勝山城もその舞台となりました。北条氏直が甲斐国へ進行し、徳川勢が勝山城を含む甲府盆地の要所の城砦に布陣しました。この際、勝山城は徳川家臣の服部正成と伊賀衆によって修築されました。
天正壬午の乱の後、1590年の徳川家康の関東移封に伴い、甲斐国には豊臣系大名が配置され、勝山城のその後の動向は不明です。
■遺構
曲輪、土塁
■場所
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■城巡り記録
2024年8月3日
見に行く前に歴史を学び、武田と今川の戦いの舞台となった場所で、その後も徳川家康が天正壬午の乱後に北条氏と戦った場所。
徳川家臣の服部正成と伊賀衆によって修築されたらしく、これは期待できるかもと見に行きましたが、いや、畑と小山でした。
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