「児山城」73城目@日本の城 #栃木県下野市

■城名
児山城(こやまじょう)

■所在地
栃木県下野市下古山

■見ごたえ
★★★

■築城年
鎌倉時代後期

■廃城年
永禄元年(1558年)

■築城者
多功朝定(児山朝定)

■主な城主
児山兼朝

■城分類
平城

■縄張
児山城は姿川東岸の台地上に築かれた平城で、河岸段丘の自然地形を利用しています。本丸跡には堀(一の堀)と土塁が残り、規模は東西約77m、南北約87mで、土塁の四隅には櫓があった可能性があります。現存する内堀の幅から、城跡は戦国時代のものと考えられますが、現在本丸跡は雑木林となっています。

かつて本丸は5重の堀と土塁に囲まれ、東西400m、南北700mに及んだとされています。現在、一の堀の外側は宅地や耕地に変わりましたが、空堀を道路に転用した場所や、戦国時代の地割を基礎とした集落が残っている箇所もあります。本丸跡の地名は「本城」で、北には「西城」「中城」「北城」という地名が残り、標高は本丸跡が最も低く、東に向かって高くなっています。

児山城の南には初代城主の児山朝定が建立した華蔵寺があり、当時は城内にあったとされています。さらに南にある旧石橋中学校跡地(現・石橋総合病院)付近の小字「稲荷城」やその北側の廃水路が、城の南端と推定されています。城の北端は星宮神社境内北側にある空堀跡とされる場所が該当すると考えられます。

■歴史
児山城は鎌倉時代後期に多功宗朝の息子、多功朝定が築いたと伝えられています。彼は児山に姓を改め、児山氏の初代城主となりました。朝定の後継者には、娘婿の三浦義行の五男、朝行が養子に入り、2代城主となりました。

推定6代城主の児山宗晴は、1380年の茂原合戦で小山義政と戦い、武功を挙げました。その後、1539年には真岡城主・芳賀高経が宇都宮氏の内紛から児山城に籠城し、防戦しましたが、籠城事件は小田政治の仲介により終結しました。

推定10代城主の児山兼朝は、1549年の喜連川五月女坂の戦いに宇都宮尚綱方として参戦し、一時勝利を収めましたが、宇都宮尚綱が戦死したため撤収しました。続く1558年、上杉謙信が多功城を攻めた際、兼朝は戦死し、児山城は廃城となったとされています。

児山氏の家系はその後も続き、多功氏の家臣帳には1590年代の記録が残っています。児山城跡は栃木県指定史跡であり、堀や土塁が往時の姿を残しています。現在、児山城址守り隊が城跡の保全活動を行っており、2021年から御城印の販売を始めています。

■遺構
堀・土塁

■指定文化財
栃木県指定史跡

■ご城印

■場所

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■城巡り記録

2024年7月27日

壬生城まで来たので、せっかくならと近くのお城を捜したら見つけました。

児山城です。

バイクで来ていたので、電車だと来れなそうなところを中心に行ってみたいと思います。

早速行ってみると小さいながら駐車場もあります。

バイクには十分ですね。

そして、お城の説明とその下に御城印の販売案内がありました。

御城印が売っているんですね。

どうやら近くのグリムの館という場所のようですので、あとで行ってみることにしました。

とりあえずお城へ。

ものすごく綺麗に整備されたお城です。

少し進むと空堀があります。

これはかなりの広さと深さ。

当時は二重になっていたようです。

そして土塁が四方を囲んでいます。

しっかりとした造りと遺構として残っていることに驚きです。

静かな雰囲気の中、それほど広くないため見て回るにはちょうど良い広さのお城でした。

そのあとグリムの館に行き、ご城印も4種類購入しました。

このお金が少しでもお城の整備に使われるのなら良いかなと思います。

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